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 コラム 恵みの水  岩井 宏實  帝塚山大学教授(民族学)
 水分の神・川上の神
柳橋水車図 部分 桃山時代(京都国立博物館蔵)
柳橋水車図 部分
桃山時代(京都国立博物館蔵)
 水は他界からの恵みである。山の峯から山肌を流れ流れて里にいたり、さらに海に注ぐ。農耕を育む里人にとって、水は欠くことのできないものである。水によって里が潤うために、日本では古代から神を祭り祈った。その代表的な神が「水分の神」である。この神は流水を司る神で「くまり」は「配り」を意味し、水源地や分水地に多く祀られる。『古事記』(注釈1.)では速秋津日子と速秋津比売両神の子として、天之水分神・国之水分神が登場する。

『延喜式』(注釈2.) には大和国(奈良県)葛城郡の葛木水分神社、吉野郡の吉野水分神社、宇陀郡の宇太水分神社、山辺郡の都祁水分神社があげられ、ほかに河内国(大阪府)石川郡の建水分神社、摂津国(大阪府)住吉郡の天水分豊浦命神社を載せている。
これら水分の神は、水を分かち与える神格として雨乞いの対象とされ、『続日本紀』(注釈3.)には文武天皇2年(698)4月に、吉野水分の神に馬を献じて祈雨したことが記されている。

 また「川上の神」も水を司る神で、『延喜式』にも大和国の丹生川上の神があげられている。いま丹生川上神社は、丹生川上社・中社・下社の三社があり、上社は高神を、中社は罔象女神、下社は闇神を主神とする。いずれも水を司る神で、古代・中世を通じて祈雨・止雨の神として崇敬された。丹生川上の神とならんで京都の貴布祢(貴船)の神も高神を主神とする祈雨・止雨の神として崇敬を集めた。天平宝字7年(765)以来ほとんど連年、丹生川上の神や貴布祢の神に祈雨・止雨の祈願をしたことが『続日本紀』『日本後記』(注釈4.) 『続日本後記』(注釈5.) 『文徳天皇実録』(注釈6.) 『三代実録』(注釈7.) などに記されている。祈雨には黒毛の馬を、止雨には白毛の馬を献上して祈願した。古代から神霊は馬に乗って降臨すると信じられていたからである。黒色は雨をもたらす黒雲の象徴として、祈雨の呪法の基本的な色であり、白色はその反対呪法で白日の象徴であった。これらの祈雨・止雨は、いずれも国家的な祭事として行われた。

 禊ぎの水
「禊ぎの水」の伝承、神社の清めの水。
「禊ぎの水」の伝承、神社の清めの水。
 山中から流れた水はすべて海に注ぐ。その海こそがもう一つの他界で、神々の住む世界であると日本人は古くから考えていた。従ってその海水に触れることが「禊ぎ」すなわち身を浄めることであった。「みそぎ」は「身滌(みそそぎ)」からきた語で、古典では「潔身・身祓」などを当てている。神霊を迎えて祭りを行うためには、まず穢れを避け「物忌み」(注釈8.) に入り慎んでその日を待たねばならない。そのために禊ぎをするのである。
海上他界に連らなる海水は、特に浄祓力に富むと信じられたため、禊ぎは本来海水を浴びるものであった。九州には広く「潮かき」「潮けり」「潮とり」の習俗があり、志摩(三重県)の漁村にも大晦日の夜、村人がいっせいに海水に浴する風習を守るところがある。また「住吉のお湯」と称して住吉神社の6月の祭りのころには、社の近くの海辺で水浴をすれば長寿延命の効ありとされている。山間の村でもわざわざ海辺に降りて「浜降り」「浜行き」などと呼ぶ禊ぎをする例も多い。今日では晴れの座席に盛り塩をすることがあるが、これも海水による禊ぎが発展したものである。

 一方、伊賀国(三重県)最大の河川である宮川では、伊勢神宮に詣でるときに川を渡った所で禊ぎをしたと『延喜式』に見える。江戸時代には主に船で宮川を渡って参宮した。宮川を渡ると神域であるため、桜の渡し・柳の渡し・磯の渡し・上条の渡しのそれぞれの渡船所は、神域に入るために禊ぎをする神聖な場所であった。その神聖な宮川の水にすむ年魚は、神事に際して神に供するものとされ江戸時代まで禁漁とされていた。

 また海から遠いところでは、海の延長である川に海水が満ちて上ってくるとの意識から、川で禊ぎをする風習が生まれ、内陸で広まった。井戸も他界に通ずるとの意識から、禊ぎの水として井戸水が用いられるようになった。

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