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川崎 清
立命館大学理工学部教授・建築家
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■変容する土壌
私はいま京都に在住し、日ごろはあまり「関西」を意識しないものの、いわば関西を足場にして建築活動をしている。
私が建築を始めたころ、1970年に大阪万博が開かれるということで、その5〜6年前から開催をめぐる準備に関西全体が巻き込まれる状況であった。それまで東京と大阪とか、関東と関西とか、とかく対照的な文化圏として識別され、しかも東京オリンピック以来、東西の経済力の差はますます広がって関西の地盤沈下がささやかれていたころであるから、大阪万博は起死回生の策としてクローズアップされた。わが建築界もこれへの取り組みをめぐって、国際化を視野に入れながら東と西の建築家の共同作業と、建築から都市・地域計画や環境問題を取り込む契機となったり、あるいはメタボリズム*や未来学など新しい思想の枠組みも、関西から発信されたと言っても過言ではない。
関西の現代は、これを境にして戦後の新しいコスモポリタニズムが開かれたのではないかと思う。こうした開かれた環境の中で、建築家相互の活動の場としては関西の境界領域はあまり意味のないものになっている。すなわち、逢坂の関より西を関西と呼ぶなどの領域的な概念よりも、伝統的関西の文化やアイデンティティーの代名詞と理解してよいのではないかと思っている。新しいコスモポリタニズムの台頭と言っても、関西には京都・奈良のような古都もあり、上方文化の中心であった大阪もあり、レトロ感覚の神戸もあり、さまざまな異なる伝統の土壌にはぐくまれた中に特有の現代文化がある。関西の現代を語るときに、関西の固有性とコスモポリタニズムの絡みと、それによって起こっている変容の様がイメージされなければならない。
もともと関西の近代建築は、辰野金吾、片岡安、武田吾一、安井武雄などによって開かれたが、いずれも東京の流れから始まった。東大のエリートでありながら、いろいろないきさつから関西に定着することになった安井は、東に対して斜に構えたところがあり、コスモポリタンでありながら関西人化した一人ではないかと思う。本格的な関西の建築を切り開いたのは渡辺節─村野藤吾のラインであり、特に村野は関西の色を持った建築のデザインを開拓した、代表的な建築家である。ここに近代主義の流れと、必ずしもそれによらない立場があり、村野の存在は大いに関西の建築家たちの精神的なよりどころとなったのではないかと思われる。
私の評価としては、村野は特に関西を意識したかどうかはわからないが、そのデザイン的なレパートリーの広さと洗練された手法は、多彩な関西のデザイン風土を体に吸収しているようなところがあった。現場でどんどん変えるといったやり方も、あたかも茶室や庭園をつくる時のような感覚で、それ自身が近代主義と相いれぬものがあった。それより少し後の浦辺鎮太郎なども近い立場であるが、村野ほど洗練されず、いわば土着風で、こうした一見あかぬけないデザインもまた関西風を代表するものの一つであった。
関西を言う場合、もう一つは日建設計のような組織事務所の存在がある。村野・浦辺の対極には日建設計や、組織事務所を率いることになった合理主義派の東畑謙三、安井の跡を継いだ佐野正一などがいる。近代主義と反近代の建築は、互いに絡みながら次第に太い潮流に成長し始めた。その世界的潮流である近代主義の太い流れとともに、文化の土壌の豊かさを養分として多彩な建築群の花を開きながら現代になだれ込んできた。とかく華やかな話題は東京にさらわれていたが、20世紀の終わりになって関西国際空港や明石海峡大橋などのビッグプロジェクトが目白押しに実現されたことなどもあり、関西の土壌は国際的な視野に晒されることになって、建築家の活動の場もグローバルに開かれてきた。
* 原義は生物学における新陳代謝。都市や建築を変化するダイナミックな過程としてとらえ、将来の変化を予測して計画に取り入れる建築の考え方。
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